「光の子として歩みなさい」
「光の子として歩みなさい」
わたしはプロテスタントのミッションスクールで短大2年間を過ごしました。
その当時の学長が昨年天に召されていたことを会報誌で知りました。
この学長から夏目漱石や宮沢賢治、聖書について学んだのは本当に面白かった。
研究者として日本の近代文学を本当に探求しておられ、そこから紡ぎ出されることばに、授業中や講演中、何度胸が熱くなったかわからない。
素晴らしい先生から、学ぶことができて、本当に幸せだった。
そして、学長への追悼文を書かれていたのが、
現学院長で、当時、わたしは宮沢賢治のゼミで学んでいたんだけど、その時の先生の文を読んで、これまた胸が熱くなってしまった。
そこには、
芥川龍之介の「西方の人」の一節があった。
「クリスト(キリスト)の一生はいつも我々を動かすであろう。それは天上から地上に登るために無残にも折れた梯子である。薄暗い空から叩きつける土砂降りの雨の中に傾いたまま。」
「神のひとり子でありながら地上につかわされ、人間の理解を得られず無残にも処刑されたキリスト・イエスの姿が鮮明に表現されています」
「この『天上から地上に登る』という逆説的な表現にこそ、キリスト・イエスのこの地上で果たそうとしたことの真実が、芥川によって表現されている」
「『キリストというペルソナと対面する』ということは、キリストによって救われることであると同時に、キリストによって激しく問われることであり、もっと言えば、キリストにつまづくことである…」
「要するに、天上から地上に登るということは、もしそれを実行したら頭を下にして降りてくるということなり恐怖に駆られる状態となる、ということに他ならないからです」
「問うことは、そのまま問われることであったのであり、そこでおのれにかえってくる刃によって血が流れる場所にしか、真実は立ち昇って来ない…」
「問うものは問われる者である」
なんのことだか、さっぱりで面白くない記事だと思われるかもしれないけれど、わたしに響いた言葉たち。
天上から地上に登る…
まさに楽園である天国から、わたしたちは、本当に混沌としたこの世界へと降下してきます。
地上を楽園にするため、地上を天国の楽園にいるかのように生きるというミッションを持って。
降下するとき、羽でも生えていれば、優雅に足から、この地へと降りたてるのかもしれないけれど、
大抵は落ちる時は、頭が下になりますよね。
そして、まさに、赤ちゃんは、お母さんのお腹の中で逆さになっていて、頭を下にして生まれてきます。
生み落とすということばがあるけれど、狭い産道を頭や体を押さえつけられ、変形させて、赤ちゃんはやっぱり苦しい。バーストラウマという言葉もあるように、生まれたいと思ってやってきたハズなのに、恐怖に感じた赤ちゃんは少なくないと思うのです。
落ちる恐怖たるや…と思うのだけど、頭がある方が天だとすると、
「天上から地上に登る」ということは真実だと思うのです。
また、「問うものは問われる者である」ということばは、
『深淵を覗くとき、深淵もまた、こちらを覗いている』
ということばを思い出します。
深淵から覗かれて、自分の真実を問われること、本音を見据えられることは、やっぱり恐ろしいことであると思います。
それでも、深淵、真実を覗くことを恐れない。
そんな話を何年も前のオーラソーマのコンサルテーションを受けたとき言われたことを思い出します。
わたしは、バースナンバーが7
オーラソーマのボトルでは、
B7 ゲッセマネの園
という名前の、キリストが十字架に架けられる前に、神に問うた場所の名前がついています。
そのテーマは、信仰心へのテスト。
自分への信頼がなんどもなんども試されます。
スクールモットーの、
「光の子として歩みなさい」
たった2年間で聖書もキリストも文学も理解し尽くすことは出来ないけれど、
わたしはあの時から変わらず、闇を感じ、光を見ながらこの人生を歩んできたんだな〜と思います。
そして、探求する人、深みを、血が流れても痛みがあっても見れるひとを尊敬するし、大好きなんです。
そんなわたしも探求者だなと。
敬虔な仏教徒でもクリスチャンでもないけれど、その精神は今もここにあると思うのです。
0コメント